2019.05.01 / 健康・美容
ここ数年スーパーフードとして注目されているアカモク。
海藻類全般に言えることですが、海に囲まれている日本においては古くから食べられている日本人の食卓には欠かすことのできない食材の1つです。
アカモクも例に漏れず、実は古くから日本人の生活にとって馴染みのある身近な存在だったのです。
今回は日本人の歴史とアカモクとの関わりを紹介します。
目次
アカモクはホンダワラ科に属する海藻です。ホンダワラとよく似ている海藻ですが、実は色々と違うところがあります。
しかし、昔はホンダワラとアカモクはとくに分けられることなく同じものとして扱われていました。
そんなアカモクの昔の表現で「玉藻」というものがあります。
玉藻は「藻(も)」の美称です。言葉の由来ははっきりしませんが、解釈の1つとして藻全体のことを指す言葉で特定の種類の藻をさす言葉ではないというものがあります。一方で「ホンダワラ」のことをさすという説もあります。
そして、もう一つのアカモクの古語が「なのりそ」です。
「なのりそ」は、「告げないでください」という意味になります。「な~そ」が「~しないでください。」という意味で「のり」は「告」という漢字で「告げる」という意味になるので、告げないでくださいという意味になります。
では、なぜ「なのりそ」がアカモクのことを指すようになったのでしょうか?その由来は日本最古の正史である「日本書紀」にあります。
日本書紀の允恭天皇の時代のくだりで
「とこしへに 君もあへやも いさな取り 海の浜藻(はまも)の 寄る時時(ときとき)」という歌が登場します。
これは「いつまでも今と同じように会えるとは限りません。海の浜の藻のように寄せては返すように、ときどきしか会えません」という意味です。
この歌は、天皇の妻である皇后の妹が天皇に対して詠んだ歌です。つまり、三角関係にある人が、大っぴらに会えないという悲しい気持ちを詠んだ歌なのです。
これに対して、天皇が「この歌は他人に聞かせてはいけませんよ。皇后が聞けば、必ずうらまれてしまう。」と言いました。そこで、当時の人たちは歌に出てくる「浜藻」のことを「なのりそ藻」と呼ぶようになったのです。
この「浜藻」こそが海上を漂うホンダワラやアカモクのことです。
日本書紀にも記述が見られる「なのりそ」という言葉。実は、その後に編纂されている万葉集に「なのりそ」という言葉を使った歌がいくつか登場します。
万葉集は日本最古の歌集で全20巻で、収められている歌の数は4,500首にのぼります。歌の作者は天皇から農民に至るまであらゆる人が詠んだ歌が収められています。
万葉集に出てくる「なのりそ」は、「言ってはいけない」という意味と「海藻」の両方の意味の掛詞(かけことば)として使われています。
なのりそが出てくる万葉集の歌の1つを紹介しましょう……
「あさりすと 磯にわが見し なのりそを いづれの島の 海人かかりけむ」
意味としては「これから採って食べようと思って見ていた「なのりそ」を名前も知らないどこかの海人が刈って持って行ってしまったんだろう」となります。
このなのりそこそが、現在でいうところの「アカモク」や「ホンダワラ」の事なのです。
日本最古の歌集にも登場するアカモク。日本人にとっては馴染みの深さがうかがえますが、歌に詠まれたり食糧としての関わりだけでなく他のところでも関わりがあるのです。
日本は四方を海に囲まれた島国です。沿岸にすむ人たちはその豊かな自然を活用して生活をしています。
とくに海藻類はミネラルも豊富で人間の健康を維持するために大切な成分がたくさん含まれています。
最近ではアカモクもスーパーフードとして注目されるほど体に良い成分が含まれていることが研究されています。
そんなアカモクを含めた海藻類と日本人のとの関わりを紹介していきます。
紀元前1万年前、日本列島は大陸から地形的に切り離されたといわれています。
それ以降、日本人は四方を海で囲まれた風土とともに歩んできました。
海の近くに住んでいた皆さんの祖先が海に潜り、魚や貝、海藻をとり食べるようになったのは簡単に想像ができます。
そんな日本人と海藻の関係を遡ってみると、縄文時代や弥生時代にはすでに、人にとって身近な存在であったことを証明する痕跡が見られます。
島根県出雲地方の猪目(いのめ)洞窟では、縄文・弥生時代の遺物の中から貝殻や魚の骨と一緒に、ホンダワラなどの海藻の一部が発見されています。
青森県亀ヶ岡の泥炭遺跡からは、ワカメなどの海藻が出土しています。
文化を持ち始めた人間は、祭時や租税といったシステムを作っていきます。
そうした日本人の作った文化の中でも、アカモクは密接な関係をもっていました。
つまり食用としての関わりだけではなかったということです。
飛鳥時代では、大宝律令(701年)には、租税として徴収する海産物を29種類としています。その中で、海藻が占めるのは実に8種類にものぼります。
また神社の祭礼の時にはお供えものとして昆布やワカメなどの数種類の海藻がお供えされていました。
平安時代には貴族は米を主食としていました。副菜として野菜や海藻類を多く食べていました。
時代とともに食糧事情も良くなっていき、室町時代に入ると海藻類は嗜好食品として広がっていきました。
一般家庭にも少しずつ普及していった時代です。
戦国時代には、多くの食料を備蓄するようになります。コンビやアラメ、ヒジキといった海藻類も干物として備蓄されていたようです。
江戸時代には入ると、流通がさかんなり、海藻を食べる習慣も庶民に一気に浸透していきました。それに加えて度重なる飢饉に備えて、備蓄が進んでいったと考えられています。
加えて、この頃は藩財政を向上させるために各地域ごとに地場産のもの利用した品が作られるようになっています。
現在でも名産品といわれる陸奥の松前昆布や出雲や隠岐のワカメなどがそれです。
以上のように日本人と海藻との関わりは深くそして古いものがありました。
ただ食糧として食べていたのではなく、塩分などのミネラル分の貴重な補給源としても役立っていましたし、内陸の狩猟で生計を立てている人たちとの物資の交換手段としても用いられてきました。
今でこそ、科学の力で海藻類の栄養分や、その有用性が明らかになりつつありますが、そんな科学の力のない時代でも生活の一部に海藻をうまく取り入れていたのです。
そんなアカモクなどの海藻類。実は、食料としての存在だけではなく、縁起物としても活用されていたのです。
日本最古の歌集である万葉集にも登場するアカモクですが、実はそれ以外でも日本人に関わりのある海藻だったのです。
アカモクには縁起物としての側面もあることをご存知ですか?
アカモクは「ホンダワラ科」の海藻です。
ホンダワラ科の海藻の特徴は、藻の葉先に小さな気胞が存在することです。
気胞を浮き袋にすることで海中で直立しています。海を漂う時期には海上に浮いて漂ったりします。
この特徴的な気胞が稲穂を連想されることから、古くから「豊作や子宝に恵まれるように」と縁起物とされるようになりました。
つまり、干すために束ねられたアカモクを稲を束ねた「穂俵(ほだわら)」と見立てるようになったのです。
この「穂俵」が転じて「ホンダワラ」という名前がつけられたといわれています。